どれくらいの愛情  白石一文

書評とまでいかなくても感想文のようなものを。

 

 僕は小説に何を求めるかというと、何が書いてあって欲しいのかというと、作者の 考え である。

この作者は何を考え、そして何を読者に伝えようとしているのかということをきちんと言葉にして物語に託しているような小説が一番だと思う。

ミステリであれ、恋愛小説であれ、私小説であれ何か読者に考えることを求めて、作者と対話していく、そういう流れが読書の中でもっとも楽しいのじゃないかなと僕は思う。

 

 小説はエンターテイメントの一分野であるので、もちろんその架空の世界を疑似体験したり、構成や言葉のセンスを楽しむということもあるけど文学という位置で小説を楽しむのならそれだけでは足りないのでは思う。

 

 今の作家にはなかなか使われないが、作家は文豪と呼ばれもする。文豪と呼ばれる作家は教養が高く、小説によって人々を啓発した人たちだった。実際夏目漱石や森鴎外、幸田露伴に三島由紀夫、安倍公房に大江健三郎と第一級の知識人であった。

そういう人の作品は影響力を持ち、読者は何か考えざるを得ない読後感を持つ。

読んで終わり という軽いものではないように感じる。

 

 小説ばっか読んでなになの という否定的な人たちがいる。

極論、小説亡国論者である。

なるほど彼らのいうことは分かる。

小説を読むことはいわゆる勉強とは違うと思うし、疑似体験している間は頭は受け身になっているし、学べることは少ないと思う。

でも小説はやっぱり読むものだと思う。

彼らに対する反論というのは最近の僕の課題であって、小説を読むときにもよく考えることなのだけど、小説を読む利点、小説にしかできないことってなんだろう。

それは作者との対話であると思う。

これは作者の代弁者である主人公や、第三視点がないとできないのではないかなと思う。そしてそれは疑似体験しているその世界のフィールドでのみ行われると思う。

小説というのは作家とのコミュニケーションの場だと思う。

 

 白石さんはそういう意味でとてもいい作家だと思う。

とても話しやすい。

説教臭くもあるけどきちんと考える方向を導いてくれる。

そしてその内容はすごく抽象的だ。

 

 抽象的ということは一般性を持つということだ。

それ故に広く読者の共感を得、長く時代に残る。

色あせない内容となる。

 

 今回の作品では、見ることができない大切さ、大切なものということを扱っている。

目で見る文字を媒介に作者と見ることができないものについて考えを巡らすのである。

愛 なんてまさにそれである。

 

 作者を言う、「目に見えないもの不確かさの中に見えないものの確かさが隠されている、この世界は私たちが想像する以上におそらく完成され尽くされているいるのである。」

それはある意味非科学的なことで、楽観主義的なところもあるが、そんなふうに捉える僕たちにもっとそのような事柄に関して考えろといっているように思える。

 

                         アサヤマプライム

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    na tej stronie (火曜日, 31 10月 2017 21:38)

    wykrzesać

  • #2

    sextelefon (水曜日, 01 11月 2017 01:52)

    najniedołężniej